恋の文学トンネルズ3
鼻を噛み切る熱愛に応える
17世紀のイタリア、フィレンツェに近いある小都市で婦人麦わら帽子製造販売商の長男と蝋燭商の末娘エレナが恋愛し結婚した。当時の刑法では殺人と贋金づくりと放火、この3種の犯罪者は即刻、斬首刑に処せられる。
「夫が過って人を殺しました。処刑に先立って、特別に許された最後の別れの際、夫は突然に私の鼻先を噛み切りました」。
結婚生活は2年と13日。喰いちぎられて半年後、初めての外出先はまず教会。ショールで顔を隠したエレナは神父に先のように告解したのだった。このあと、エレナが「私は修道女にはなりません」と口走ったのは、激情的な夫への愛の意地であり、突発的な不運に見舞われた夫への優しみからのように思えたというのだ。
事件3ケ月後、顔の中央に傷を持った嫁と義母の間に交わされた手紙の文面。
「お義母さんが私と二人きりになれるようにして、何か言いたいことがあるのではないか、とまで訊ねてくださいましたのに、少しも気がつきませんでした。有ってみて、無かったことにやっと気がつきますとは、あなたの嫁は何という阿呆でしょう」。
「半分がっかり、半分ほっと、です。躰に障ってしまったのですね、それほどにも。・・・気にしていましたのに、そういうこともありかねないとは考えてもみませんでした」。
生理の摩訶不思議。身心の傷と回復の証し。
神の試煉を言う神父、噂好きな街の人々、鼻の欠け
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たエレナを包みこむ家族。「未亡人」としてのその後の話がこの小説、河野多恵子『後日の話』文春文庫2002年2月刊、の読みどころ。作者の文学の円熟が微細な局部にたちあらわれる。円熟が鋭利な感覚を生起させる。白熱の中核の納得できる手際よい叙述があって、さらに取るに足らぬ周縁の事物への周到な描写が逆に中核の本質をより明瞭に、客観化させる。中核の本質とは神に対置した世俗社会の人間の、愛のいきいきとした潔さである。周縁の事物とはたとえば法螺貝スープの美味しさの話。河野多恵子は魚貝類を料理するシーンがいつもうまいのである。
「いけるね」、「うまいな」、「なるほど、永生きできそうなスープだな」とエレナの父親は言う。だがエレナは永生きしない。
一般に恋するふたりのひとつの愛はその家族、職場その他で批評され成行きの是非が検討される。社会的広がりの場で試される。が、エレナは社会的に拡散される一方でない自己を持った女性だった。世間衆知の猟奇的でもあった残酷な事件の人。若い感激屋の夫の過剰な愛ゆえの突発事に歳月を超えて最終的には彼女はどう応えたか。
エレナは社会的には不穏な、しかし本人にとって純粋な計画を企てている、短かい結婚生活のまま刑 死した夫との愛を完結させるために。神の救いにたよらずに愛を貫徹する。愛に殉ずる英断を実行する。ケリをつけるのだ。〔警告。『後日の話』をこれから読む気の人は以下、読まないで〕エレナは、まきぞえの焼死者を出さない放火を犯して、夫と同じ刑死者になり夫のもとにみまかる決心なのだ。
(マルマル愛)
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