文学のトンネル2
◆三四郎と純一の対決
生意気な学生Aが手紙をくれた。
「Pity's akin to love. どう訳したらいいのか。それはさておき・・・」とあって以下用件らしきことを書き綴っているのだが、どっちでもよいような用でどうとも何ともいわれない。しかしこの和訳課題、気になる。悲哀は恋のよすが、とか。生半可な教師を、クソッ、験しているのだな(『生半可な学者』柴田元幸著、白水社、を読んだ。可。佐藤君と共著の『佐藤君と柴田君』新潮文庫、もよい。村上君との『翻訳夜話』文春新書、もまあーね)。
akinを電子辞書でひくとなんと例文にこの文があった。「≪諺≫哀れみは恋に近い」。それからだいぶたって、出典は夏目漱石『三四郎』であることに気づいた。里見美禰子が美しくきれいに発音する。佐々木与次郎は「かわいそうだた惚れたって事よ」と訳している。
日本の高校生は2年の夏休みに漱石『こころ』を読むことになっている。高3になると鴎外『舞姫』を読むことになっている。なぜかというと、文部省検定済教科書の定番教材だからだ。教師の指導に不素直な、反骨生徒が『草枕』や『渋江抽斎』から、漱石・鴎外をはじめるのもまた好ましい図だ。『猫』や『坊っちゃん』、『じいさんばあさん』や『最後の一句』、それぞれ魅力あるしね。僕は子どもの頃、思ったものだ。世の中にはカバヤだけでなく森永ミルクキャラメルも、明治クリームキャラメルもある。森永・明治はチョコレートでも牛乳でも競いあっている。漱石・鴎外は文学の森永製菓と明治製菓だな、と。
漱石に『三四郎』があり、鴎外に『青年』がある。文豪が自分を省みながら若者の生き方を考えた青春小説。主人公の名はそれぞれ小川三四郎・小泉純一(ところで当今、姿三四郎なぞは知る人も少なく、小泉純一郎がブームという。選挙だ。若人よ、平和憲法をどう生きる)。
『三四郎』は田舎の熊本から都会の大学に通いはじめた新1年生の物語。小川三四郎は大学の日常、都市の生活、そして異性との問題をどう体験し、どう生きたか。ぜんたい、『三四郎』は謎めいた異国語が頻出する小説である(それが体験の新しさと認識の不如意を伝える)。アフラ、ベーン。オルノーコ。ダーター、ファブラ。ハイドリオタフヒア。気どってもいる。「風が女を包んだ。女は秋の中に立っている」。それが「アンコンシアス・ヒポクリット(無意識な偽善家)」のヴォラプチュアスな美禰子なのだ。「田臭」の大学1年生、三四郎はしかし、よく健闘している。
「大学に入って最初に読む本? 迷わず『三四郎』にしなさい。『三四郎』は≪絵画小説≫、≪文京区小説≫でもあるが何より≪大学新入生小説≫なのです」と僕はかつてAに勧めたことを憶い出した。いま僕の想像力を掠めるのは、壮年になったその後の三四郎が九段坂上、靖国神社境内で8月15日、小泉純一と劇的に対決する未刊小説『続・青年三四郎』こと別題『中年ゴロ郎』。
(悩みなき大いな闇)
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