天重の隅っこ3
◆黙読、音読、つん読

 平日の昼下り、可部線の電車、隣りあわせに坐ったふたりの小学生がそれぞれの本に熱中している。ひとりは黙読。もうひとりは声を出して読んでいる。その子の声だけの車内。
 読んでいるのが宮澤賢治≪オツベルと象≫なんかだといいなあ。ところが事実はおとなが捨てていったポルノ週刊誌だったりして。
 ここで情景が変化する。
 黙読少年が音読少年に注意したのだ。そのセリフが「声をたてずに読め!」とか「黙って読め!」だとあたりまえ。彼はこう、うながしたのだ。
 「心で読めよ」。
 心で?目で読むのは目読か。目で読むのは当然だ(もっとも点字は手で読む)。
 幼い時、僕も親や教師に言われたのかしら、モクドクしなさい。
 問題は読んだことが心に触れているかどうかだろう。素描(デッサンまたはドローイング)とは見たことを手で追うことによって心に近づける行為なのだ。目で読んだところを鉄道員の指さし確認のように、身体の他の器官をも用いてゆっくりと着実に進行せしめよ。読み、口頭で確認せよ。
 黙読はさしあたり受容ばかりの孤独。
 音読はリズムだ、演技だ、発信だ。
 母語を慎重に音読する。人は声に飢え、音を求めているのではないか。たとえば茨木のり子の詩≪りゅうりぇんれん≫を民族の呪文のように、あるいは明日への読経のように音読すること。
 今日も講義室で異国の言語を読む声が響く。教室には音読がよく似合う。学ぶ者は声を出せ。
 ここで不意に、誰のためにでもなく何の用を足すためにでなく、目が接し、指が接したことを唇で味わうように、すなわち幼児のように、僕は母国語の何かをせいいっぱいに読みあげたくなった。定番としての≪平家物語≫、近代古典の≪渋江抽斉≫・・・。こういう時のためにつん読しておくべき本がある。つん読の聖書を仏典を、初々しく読める幸わせ。光を投げてくる心の本を即座に手にする喜び。

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