樹上トンネル図会1
◆不思議への関心 
≪聖シストの聖母子≫の二天使
新しいカレンダーの出まわる季節です。近年は猫ばやりで猫グッズがまんえん。猫という猫が、文具売り場のはしっこでニンゲン何スルモノゾとクールなキャッツ・アイを光らしている。
ミュージアム・ショップでは猫を尻目に飛びかっているのが天使グッズ。わけても図に示した二天使こそ最も大量に、葉書に封書に出現している、商品化された天使図ベスト・ワンではないか。
「Tシャツで見た。わたし、それをローマの屋台で買ったの」と告白するGFもいた。
さるギリシアの哲学者の有名なセリフに、馬の神は馬の姿をしているだろうというのがある。もし馬にも天使を創造する想像力があれば馬の天使もやはり馬型だろう。同様、猫の天使も猫。人間の精神世界で天使は断固、人間のかっこうをしている。人に老若男女があるように描かれた天使もさまざまで、年少型、女性形、ごくまれに老人風というのもないでもないが圧倒的に見慣れているのは、幼児型である(日本美術でも、幼児のシャカや観音の童顔童形像がある)。
なぜ猫がもてるかと同じく、当今のわれらが天使愛好現象についても、その理由を「かわいい」以上に知りたい。そして本図の天使が特に偏愛されているのはなぜか。この天使像の魅力を語ることによって現代の庶民大衆の精神状況もまた見えてくる道理ではないか。実際、不思議なことについて関心を持ち、不思議そうにしたこの二天使の、その思索の対象は何か。
本図はラファエ ロ≪聖シストの聖母子≫、制作1513-14年。教皇が注文した。現在の所蔵はドレスデン国立絵画館。重要なことは本図は部分図。画面底辺の天使の上部では聖母子と聖人たちが聖会話を交している。まずは全図をじっくり見届けたうえでわれわれの思索を始めたい。
どう?ラファエ ロを研究してみない。現代を知るためにも、要、古典の勉強。画聖扱いされたこの画家の本質(と同時に限界)としての俗受けする性格、および時代や宗派を越える古典性。
(古草居老)
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