外国語を学ぶ6
アイルランド語とわたし

 アイルランド留学中にアイルランド語を学びはじめた。アイルランドのほとんどの人は日常的には英語を使っているが、それでもまだアイルランド語はアイルランド人の「母語」である。不幸な歴史をたどってきたこの言語にまつわる政治的な話をはじめるときりがない。私にとって、アイルランド語にかかわりつづけることは、世界のあらゆる少数民族言語、そして現代社会において周縁においやられているものについて考えることにつながる。
 アイルランド語で詩を書く現代女流詩人ヌーラ・ニ・ゴーノルも同じようなことを言ってくれるかも知れない。私は目下ヌーラの人魚をめぐる詩の日本語訳に奮闘している。詩の主人公であるこの人魚の存在そのものが、アイルランド語のおかれた状況、ひいては私たちが意識のかなたにおいやろうとしているけれども大切な何かの存在を暗示している。アイルランド語の詩を自分のなかにとりこもうとする無謀な行為は、手に届きそうで届かない私の内部にひそむ人魚をもとめて手探りしているかのような感覚をともなっている。アイルランド語のひびきと手ざわりを訳すという不可能。
 つい最近、過去二回私が参加したアイルランド語夏期講習の今年のパンフレットが届いたが、去年私がいたクラスの写真が載っていた。「パンフレットに偽りがあってはいけないから、また来ました」("Ta me anseo aris, mar ata mise i broisiur.")ともしかしたら笑ってもらえるかも知れない冗談を抱えて、今年も、アイルランドの片田舎にアイルランド語に浸りにいこう。

国際学部講師 池田 寛子

*文中、アイルランド表記を通常のアルファベット表記にしています。

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