文学のトンネル3
◆ドリンク・アリス イート・アリス
兎穴を落ちていった英国小娘の異界冒険記が『不思議の国のアリス』である(以下、主に角川文庫版・福島正実訳に拠る)。大学生の僕はこのお話でグリフォンという西欧古典動物の形態をはじめて知ったが、じつはもっと知ったのだ。それをひともじでいうのは難事だが、悪意でなく虚仮コケにする抜け道の楽しさ、そして騙カタることの罠にすすんで落ちる善意の慶ばしさ。そうあることをスルメイカ、その不興な貧困を思えば、アリスにあるのはそうならないことがアタリメエの、その換骨奪胎の無限定喜悦である。これをむつかしくいうと、ばかばかしさの良さである。真実、わたくしはばかばかしくないものには目もくれぬぞ。
解体するアリスをお飲み!
拡張するアリスをお食べ!
一方が馬なら一方は鹿ともいうべき、お上品なだけの道徳とご立派なだけの教訓。学校教育がいちめんに持つばかばかしさと無力についても考えさせる。
さて、アリスはグリフォンと連れだって、亀モドキの身上話を聞くことになる。亀モドキはすすり泣きしながら重苦しげに学生時代を語る。
「海中学校の先生は年とった海亀タートルだったが、私たちは陸亀トートスと呼んでいた。なぜかというとhe
taught usトートス」(新潮文庫版・矢川澄子訳では「ゼニガメってよんでた。だってぜにかねとって勉強教えるじゃないか」)。仏語・音楽・洗濯は別会計の課外レッスンで金欠の亀モドキは正課だけ履修した。正課はよろめきかた(Reeling)もだえかた(Writhing)。これはいういまでもなく、読みかた(Reading)書きかた(Writing)なのだ。矢川訳では「酔いかた掻きかた」。そして絵画。絵画の先生は「年とったウナギで週1回、のろのろ画(Drawling)、のびのび画(Stretching)、とぐろ画(Fainting
in Coils)を教えた」。矢川訳では、腺病画センビョウガ、衰彩画、遊彩画。Drawing、Sketching、Painting
in Oilsですね。
「古典の先生は年とった蟹で、笑いかたラフィングと悲しみかたグリーフとを教えていたっていう話だけど」、LatinとGreekだ、「そうだったよ、そうだった」。そしてグリフォンと亀モドキは手で顔をおおう。涙、涙。「もういいよ、勉強のことは」。
人は老いやすく、学も人間性も成りがたい。学びとは人に課せられし運命的課題なり。学びえるにもかかわらず学び怠りし凡人らの懐旧の悲哀。
全然、話がかわるけれど昭和14年2月、野上弥生子は訪れたオックスフォード大学図書館の庭を見おろしながら『不思議の国のアリス』を懐かしんでいる(『欧米の旅』岩波文庫)。著者L.キャロルはこの学校の数学、論理学の先生だったのだ(専門の著作に『円錐曲線』『行列式の要諦』など)。
『不思議の国のアリス』はシェークスピアより軽く健気でマザーグースより理解しやすく親しみやすい。美的史的素敵滅法に娯しい、英国随一の世界文学作品である。何より、自立せんとする孤独で素直な女学生の友である。
(アオリス・オイケス・アリス)
*文中、漢字の読みを緑色の字で表記いたしました。
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